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日本での人蔘栽培の歴史
日本における人蔘の歴史は、奈良時代までさかのぼります。
天平11年(739年)、現在の中国の国王から聖武天皇宛てに送られてきた品々の中に人蔘があり、それが初めて日本に伝わった人蔘とされています。
人蔘の人工栽培は、日本では18世紀前半、朝鮮では18世紀後半(1760~1770年頃)、中国では19世紀後半(1860年頃)から。国内での本格的な栽培は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の時代(1722年頃)で、栽培地は日光神領(現・栃木県日光市)と伝えられています。
幕府は北は松前藩、南は薩摩藩まで、各藩に人蔘栽培を奨励。
しかし栽培はうまくいかず、長野県では松代藩が上林高原で、上田藩が菅平高原で、小諸藩が蓼科高原で試作しましたがいずれも失敗に終わります。
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信州人蔘の
はじまりと全盛期
「信州人蔘」のおこりは、弘化3年(1846年)。
佐久郡志賀村の神津孝太郎が日光神領の薬種屋から29粒の種子を持ち帰り、これを植えたことに始まります。
試作に失敗しながらも栽培方法を調べ、苦労の末、3年目にしてようやく一合の種子から栽培に成功します。
明治に入ると換金作物として栽培されることも多くなり、明治末期には「長野県薬用人蔘同業組合」が組織されます。
明治末期から大正にかけて、「人蔘栽培生産組合」が各村落に誕生。昭和8年(1993年)に26組合が結束して、「長野県薬用人蔘協会」が創立されます。
昭和23年(1948年)に今の長興社信州人蔘センター協同組合の前身である「信州人蔘農業協同組合」が設立すると、昭和50年(1975年)には組合員3,200名、集荷79,400kg、販売額は4億5千万円にも上り、香港と台湾への出荷で輸出産業の全盛期を迎えます。
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苦境を乗り越えて、
あらたな挑戦
昭和60年(1985年)、為替変動の差損大暴落になり、低迷の時代に入ります。
平成12年(2000年)頃になると信州人蔘農業協同組合の存続が難しくなり、理事会、臨時総会において激論の末、同組合は解散され、「佐久浅間農業協同組合」に吸収合併されます。
その後は「信州人蔘部会」として20年活動しますが、生産量の減少、栽培者の減少に歯止めはかかりません。
そして、農協の組織改革を求める中、組合員、農協との協議を重ね、令和5年(2023年)2月に、農家を主体とする「長興社信州人蔘センター協同組合」が発足。
「1年でも長く、人蔘の生産を続けたい」との思いで、あらたなスタートを切りました。
人蔘の栽培は難しく一筋縄ではいかないもの。それでも、先輩方が残してくれた栽培技術をしっかりと受け継ぎ、次の世代に残していくために、私たちはこれからも努力を続けます。
長興社信州人蔘センター協同組合
組合員一同